陸海空の乗り物フルコースの競演(1)~700系のぞみ・サンサンライナー号・広島電鉄市内線~の詳細

陸海空の乗り物フルコースの競演(1)~700系のぞみ・サンサンライナー号・広島電鉄市内線~
ごんたのつれづれ旅日記
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記事タイトル 陸海空の乗り物フルコースの競演(1)~700系のぞみ・サンサンライナー号・広島電鉄市内線~
概要

品川駅を12時58分に発った博多行き「のぞみ」29号は、高曇りの東海道・山陽新幹線をひた走り、定刻16時14分に岡山駅に滑り込んだ。2分間ほど停車しただけで、「のぞみ」は慌ただしく博多に向けて発車していく。ぐんぐん加速していくその後ろ姿を見送りながら、岡山も近くなったものだと、新…… more 幹線の威力に改めて舌を巻いた。品川から3時間半足らずしか経っていない。平成15年10月に、東海道新幹線品川駅が開業した時には、東京駅から10kmもない場所に新駅が必要なのかと思ったものだったが、品川以南に住む人間にとっては、自宅から新幹線沿線の街まで20~30分の時間短縮になることを知り、そのような効果があったのかと蒙を啓かれる思いだった。この頃の僕は品川区在住であったから、その恩恵に大いにあずかった訳である。平成11年に登場した700系は、先頭がカモノハシを想起させる容貌で、後継車両であるN700系のスマートでありながらどこか威圧的な容姿に比べれば、何となくユーモラスに感じられる。700系は、高速走行の風圧による様々な影響を和らげるためのデザインを取り入れた、最初の車両だった。山陽新幹線が昭和50年に博多へ延びるまで、この岡山駅が終点だったことを覚えている人はどれほどいるのだろうか。短期間とは言え、日本の大動脈の終着駅であったこの駅の構造は、広々とゆとりがある。乗降客は少なくないけれども、エスカレーターに長い列を作ったり、急ぎ足の客とぶつかったりすることなく改札を出て、コンコースを先へ進めば、KIOSKの店頭には吉備団子が山のように積み上げられていて、岡山に来た、という実感が湧いてくる。僕はそれだけで満足してしまって、いつも駅頭に立つ桃太郎の銅像を見損なってしまう。そのまま駅前を出入りしている路線バスに乗って、岡山電軌の路面電車と並んで走りながら、天満屋バスセンターに向かった。本当は路面電車に乗りたかったけれども、天満屋バスセンターは路面電車の電停とは少し離れているので、迷わずにたどり着くためには、バスの方が安心だった。僕がこの街にバスで初めて来たのは、大阪と岡山・倉敷を結ぶ昼行高速バスに乗車した平成3年2月のことである。この頃は、山陽自動車道もごく一部の区間が開通しただけで、関西から西へ向かう高速道路は中国道1本であった。山陽や山陰の各都市には高速道路が通じておらず、当時、岡山をはじめ福山・鳥取・米子・松江などを発着する高速バス路線が開業したものの、いずれも中国道を降りてから、かなりの距離の一般道を走らなければならなかった。昭和57年3月、竜野西ICと備前ICの間が開通したことで、山陽道の歴史は始まる。平成2年7月には、姫路西ICと竜野西ICの間が開通し、あと1ヶ月待てば姫路東ICと姫路西ICの間が通じて、播但連絡道から姫路ICを経て山陽道へと、自動車専用の高規格道路だけを直行することが出来たはずだったが、当時の高速バスは、中国道から播但連絡自動車道、姫路バイパス、太子竜野バイパス、部分開通の山陽道、そして東備西播有料道路、通称ブルーハイウェイという、楽しいけれども回りくどい経路を伝って岡山に向かったものだった。「のぞみ」ならば1時間もかからない区間を、4時間以上かけてのバス旅である。帰路に乗り込んだ大阪難波バスターミナル行きの車内で、最前列に座った、運転手と顔見知りらしい2人連れの女性の会話が思い出される。「岡山駅の次に停まるところ、何て読むん?」運行案内のビデオを見ながら片方の女性が聞く。「テンマヤ、や」と運転手さん。「へえ、面白い名前やね」「ねえ、後ろの席へ行って、足を伸ばして少し眠らない?」と、もう1人が誘っても、天満屋という名称の何かが彼女の心の琴線に触れたらしく、「私、そのテンマヤとかいうところ見ないうちは、眠れへんわ」この会話のおかげで、天満屋バスセンターという名は僕にとっても印象深いものとなった。天満屋とは、中国地方に百貨店や商業ビル、スーパーマーケットやホテルなど20を超える企業を傘下におさめるグループの総称で、その起源は、1829年に備前西大寺に創業した天満屋小間物店に遡る。昭和24年に、天満屋百貨店岡山本店に「セントラルバスステーション」の名で併設されたのが天満屋バスセンターの始まりで、その構造は阪急電鉄梅田駅をモデルにしたという、日本初のデパート接続型バスターミナルであった。当時は「バスステーションを造るより売場を増床した方がいいのではないか」という反対意見もあったと聞くが、後に、鹿児島の山形屋や広島そごうにバスターミナルが併設されるなど、模倣を生むほどの成功を治めたのである。ここには地上部を連絡する通路はなく、バス乗降場に降りた客は必ず地階ないしは2階のショッピングフロアを通らなければ出入りできない構造になっている。岡山商人のしたたかさに思いを馳せながらバスを待つ間に、高知行き「龍馬エクスプレス」号や徳島行き「岡山徳島エクスプレス」号が客を拾って発車していく。宇高連絡船の時代から、岡山は四国への玄関口であったことを思えば、それらのバスに乗って瀬戸大橋を渡ってみたい気持ちがむらむらと湧き上がってくるが、今回の旅は趣旨が異なる。僕が乗り込んだのは、17時45分発の広島行き高速バス「サンサンライナー」号だった。平成6年10月から翌年5月まで、両備バスと広島交通が期間限定で運行した路線が発展して、平成14年3月に中国JRバスが加わった3社により定期路線としての運行が再開されたのである。東京からの「のぞみ」に乗り続けていれば広島まで行けたというのに、わざわざ途中下車して時間がかかるバスに乗り換えたのか、と呆れられてしまいそうだが、それがマニアたる所以である。定刻に天満屋バスセンターを発車した「サンサンライナー」号は、バスセンターと天満屋百貨店を囲む狭い路地を抜けて路面電車が走る広々とした柳川筋に入り、桃太郎大通りに左折して岡山駅前に寄る。駅前からは、新幹線の高架を見上げながら狭隘な道を進み、線路を跨ぐ国道53号線の陸橋に駆け上がってから、ようやく本格的に速度が上がり始める。国道53号線は市街地を鉤状に走り、津島京町の交差点で北へと鼻先を向ければ、間もなく山陽道の岡山ICである。ここまでの所要時間がおよそ30分、僕が品川から乗ってきた「のぞみ」29号ならば、バスの待ち時間の間にとっくに広島を越えて博多に着いているし、同時刻に岡山を出た新幹線も、広島を目前にしている頃合いである。新幹線には敵わないものの、高速バスもなかなかスピード感のある乗り物だと思っているのだが、その所要時間の1~2割程度は市街地と最寄りのインターチェンジの間に費やされているのは、如何ともし難い宿命と言える。その代わり、新幹線ならば岡山駅を発車した数分後にはトンネルに入って視界が閉ざされてしまうところを、バスからは、城下町としての面影を強く残している岡山の街並みをじっくりと眺めることが出来るから、もどかしくも楽しい時間である。山陽道に入ってからの方が、車窓の変化に乏しく、眠気を誘う。昭和30年代から40年代に作成された全国総合開発計画では「中国地方においては、高速道路網の東西軸は1本のみを建設する」とされ、中国自動車道が昭和58年に開通した時に山陽道は計画されていなかった。中国道は中国地方の高速道路網の背骨として設定され、山陽地方からも山陰地方からもほぼ等距離にアクセス出来る、中国山地の山中を縫うように建設された。そのため、高速道路としてはカーブやアップダウンの多い線形になり、大半の区間で最高速度が時速80km以下に制限されている。山陽道は、昭和50年代から平成にかけて開通した高速道路の例に漏れず、小刻みに建設されている。昭和57年3月に竜野西ICと備前ICの間が開通したのを皮切りに、昭和60年3月に広島JCT-五日市IC、昭和61年3月に徳山西IC-防府東IC、昭和62年2月に五日市IC-廿日市JCTと、なぜか岡山より東側と広島より西側ばかりが先行して開業し、同年3月にようやく志和ICと広島東ICの間が開通する。昭和63年3月に倉敷JCT-福山東IC、広島東IC-広島ICが、同年7月に西条IC-志和IC、12月に広島IC-広島JCTが開通。平成2年7月に山陽姫路西IC-竜野西ICが開通。平成3年3月に岡山JCT-倉敷JCT、福山東IC-福山西IC、山陽姫路東IC-山陽姫路西ICが開通。平成5年3月に岡山IC-岡山JCT、10月に福山西IC-河内IC、12月に備前IC-岡山ICが開通し、それまで建設されていた広島以西の区間も含めて山陽姫路東IC以西の本線が全通し、播但連絡道路と合わせて中国自動車道のバイパスとなるルートが形成されたのである。東名・名神高速に次ぐ我が国の大動脈であるにも関わらず、全線開通が遅かったのは、中国道を優先したために整備計画の策定が遅れたことが主因であろうが、海岸沿いに連なる都市群を避けて背後の山中に建設されたため、地形が決して平坦でなかったことも一因と思われる。岡山ICから広島ICまでの148.8kmには、実に26個ものトンネルが存在し、山陽道を走っても、期待するほどには瀬戸内海を拝むことは出来ない。戦後、山陽本線の特別急行列車「かもめ」が運転を開始した際に、初日に招待された内田百閒は、『京都博多の間に鷗にゆかりのある海が見える所はそう長い距離ではないから、今度の様に「かもめ」と云う言葉に意味を持たせて、瀬戸内海に沿って走るからと云うのは、こじつけである。糸崎から分かれて海岸線を広島に出る呉線の列車なら、鷗に縁がない事もないだろう。ところがこの列車は糸崎から先のその辺りで段々に山と山の間に這入り込み、無暗にカーブして山の裾をうねくね廻り、山の鴉を脅かして走るのだから、特別急行「からす」と云った方がよかったかも知れない』と皮肉ったものだったが、山陽道は山陽本線よりも更に内陸を走っている。平坦ではなくても、ハイウェイを取り巻く起伏は高からず低からず、中央自動車道や東海北陸自動車道のように峻険な地形に目を見張ったりすることはなく、車窓が単調であることこの上ない。それでも、もし、初期の全国総合開発計画の通りに中国地方の東西軸が中国道だけであったならば、「サンサンライナー」号のような瀬戸内沿岸の都市間を結ぶ高速バスなどは登場しなかったことであろうから、御同慶の至りである。岡山ICから倉敷、玉島、笠岡と過ぎていけば、県境を越えて広島県に入り、福山東ICが現れる。呆気ないほどの道のりであるが、次の福山西ICから先は、どこへ向かうつもりなのか、と心配になるほど、山陽道は海沿いに走る山陽本線どころか、それより山寄りに建設されている山陽新幹線からも大きく離れて、山中に踏み込んでいく。尾道ICは瀬戸内沿岸にある尾道市街から北にかなり離れてしまっているから、平成11年に開業した今治と尾道を結ぶしまなみ海道は、未だに国道2号線バイパスとの合流点が終点になっていて、山陽道と接続することが出来ていない。倉敷JCTで瀬戸中央自動車道と山陽道が直結している備讃瀬戸大橋とは大違いで、せっかく本四連絡橋が建設されても、今治・松山方面と広島を結ぶ高速バスよりフェリーを選ぶ人の方が多いという有様になっている。備讃瀬戸大橋が宇高連絡船紫雲丸の事故によって建設が促進されたように、しまなみ海道の建設にも第五北川丸や第十東予丸沈没事故といった多大な犠牲を出した2つの海難事故がきっかけとなっていることを考えれば、多少時間はかかっても、高速バスを利用する人がもう少し増えてもいいのではないか、と余所者の僕などは思ってしまう。こんもりと山々に囲まれた1530mの大羽谷トンネルをくぐると、バスは減速して八幡PAに滑り込んだ。ここで5分の休憩である。八幡PAは三原市街の北方10kmほどの山中で、バスを降りると、吹きつける風にかすかな湿り気が感じられた。雨になるのだろうか、と思わず空を見上げたが、雲は多いものの、切れ間に覗く空は眩しいほど澄んでいる。乗り物が主役である僕の旅は、天候にそれほど左右されないので、つい天気予報などを確かめずに出発してしまうのだが、今回だけは雨に降られて欲しくなかった。本郷ICと河内ICの間では、日山地、竹原、入野トンネルなど短いトンネルが断続するようになるが、山陽道がくぐり抜けるこれらの山々の上には、平成5年に移転してきた広島空港がある。何度か利用したことはあるが、広島市街から約50kmと案外の距離があり、唯一の公共アクセスであるリムジンバスで50分程度を要するため、東京と広島の間では新幹線の利用客が6割を超え、航空機利用者は3割程度に落ち込んでいると聞く。とても付近にジェット機が離着陸できるような空港がある地形には思えず、標高330mの小高い山のてっぺんを平らに切り開いて滑走路を乗っけた航空母艦のような構造には、度肝を抜かれたものだった。開港当初は、山岳地帯の変わりやすい気象条件に左右されて欠航便も少なくなかったというが、平成20年にILSカテゴリーIIIaと呼ばれる計器着陸方式が導入されて、安定した運用が可能となった。それでも、平成27年4月に起きたアシアナ航空着陸失敗事故によってILS機器が破損したことで、同年9月まで、有視界方式に近いカテゴリーⅠの離着陸を余儀なくされたことは、記憶に新しい。最寄りの河内ICを下りて空港に向かうアクセス道路で、丘のてっぺんに設けられた滑走路の南端から、空に向かって真っ直ぐ突き出している誘導灯の高架を見上げたときには、ここに着陸するパイロットは緊張するのだろうな、と感じ入ったものだった。三原を過ぎると、山陽新幹線や山陽本線、国道2号線も、海岸線に迫る険しい山地を避けるように内陸に入り込んで、山陽道に近づいて来る。山陽本線の八本松駅と瀬野駅の間は「瀬野八越え」と呼ばれる難所で、22.6‰の急勾配が連続し、今でも重い貨物列車などは補助機関車を付けて登り下りしている。山陽本線の前身である山陽鉄道がこの区間を建設したのは明治22年のことで、日清戦争の直前であったことから、軍が勾配を避ける迂回を認めず、最短距離で線路を敷くことを要求した名残であるという。奥羽本線の板谷峠、信越本線の碓氷峠、そして丹那トンネルが完成する前には東海道本線だった現在の御殿場線の函嶺越えでも、補助機関車を連結していたことが知られている。いずれも、並行して国道や高速道路が建設された現在でも、地形の険しさを実感できる区間で、日本の交通機関の歴史は急勾配を如何にして克服するかという闘いの連続であったのだと思う。山陽道は山陽本線よりも北側を迂回して、それほど地形の険しさを感じさせないが、志和ICと広島東ICの間が「瀬野八越え」に相当する区間で、集落が散在する平地がなだらかに連なり、周囲を峰々に囲まれて、高原の趣がある。それでも、沿線に我が国有数の急勾配区間が存在することを思えば、車窓を眺めながらも粛然とした気持ちになる。広島東ICには広島都市高速1号線が接続していて、ようやく来たか、とホッとする思いが強まるが、「サンサンライナー」号は相変わらず山あいを走り続け、1640mの安芸トンネルをくぐると長い下り坂が始まる。すっかり夜の帳にに包まれた河川敷を抱く太田川を渡ると、両側の視界を塞いでいた山並みの気配が消える。広島ICを出て、国道54号線・祇園新道を太田川に沿って南下すると、ひしめく車と建物で、車窓が賑々しくなった。「サンサンライナー」号の終点は、平和記念公園に程近い、紙屋町の広島バスセンターである。こちらも岡山の天満屋と同じく、鉄道駅とは無関係のデパートに併設されたバスターミナルであるが、デパートがバスターミナルを建設した天満屋と異なり、紙屋町周辺に散在していた停留所を統合する目的で、昭和30年に我が国初の一般バスターミナルとして開業したものに、土地代の負担軽減を図るためにそごう百貨店を誘致した経緯となっている。昭和49年に地上10階・地下3階の広島センタービルが竣工し、バスの発着所が3階に設けられている構造も、地平に乗降所が設けられている天満屋とは異なる雰囲気が漂う。僕は天満屋でも広島そごうでも全く買い物をしなかったのだが、広島電鉄の路面電車に揺られてホテルに向かいながら、「サンサンライナー」号は山陽の2大都市のデパートを結ぶ旅であったのかと思うと、何だか可笑しくなった。にほんブログ村人気ブログランキングへ↑よろしければclickをお願いします 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陸海空の乗り物フルコースの競演(1)~700系のぞみ・サンサンライナー号・広島電鉄市内線~
サイト名 ごんたのつれづれ旅日記
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投稿日時 2018-04-28 04:00:08

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