コンターサークル地図の旅-長門鉄道跡の詳細

コンターサークル地図の旅-長門鉄道跡
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記事タイトル コンターサークル地図の旅-長門鉄道跡
概要

2021年11月14日の朝、バスで西市(にしいち)に着いたその足で、近くの道の駅「蛍街道西ノ市」に展示されている旧 長門(ながと)鉄道の蒸気機関車を見に行った。1915年アメリカ製、動輪3軸の小型機で、鉄道開業に際して配備された101号機関車だ(下注)。 *注 プレートが103に…… more なっているのは、後に転籍したときに改番されたもの。 長門鉄道101号機関車道の駅「蛍街道西ノ市」にて  戦後1947年に滋賀県の工場に転籍し、入換機関車として使われたが、1964年に引退。その後は、宝塚ファミリーランド、続いて加悦(かや)SL広場で静態展示されていた。しかし、後者の閉館によって、ゆかりの土地への引き取りが決まり、去る9月に移送が行われた。公開はほんの1週間前に始まったばかりだ。 里帰りした機関車は、道の駅の建物に囲まれた中庭に鎮座していた。しっかりした屋根が架かり、明らかに施設の中心的モニュメントという位置づけだ。SL広場では数ある機関車コレクションの中の一両に過ぎなかったので、特別に注目を浴びることもなく、雨ざらしになっていた(下写真参照)。それを思えば別格の待遇だから、さぞ本人(?)も晴れがましく思っていることだろう。 道の駅の中心的モニュメントに 加悦SL広場時代の101号機(左端、2020年2月撮影)  秋のコンター旅西日本編の2日目は、この機関車が走っていた長門鉄道の跡をたどる。鉄道は山陽本線小月(おづき)駅から北上し、ここ西市(現 下関市豊田町西市)に至る18.2kmの単線非電化の路線だった。1918(大正7)年に開業し、戦前戦後を通じて地域の交通を支えたが、1956(昭和31)年に廃止され、バス転換された。 長門鉄道現役時代の1:200,000地勢図(1931(昭和6)年部分修正図)  朝からいきなり終点の町にやって来たのは、前泊した美祢(みね)市街からのバス路線があるからに他ならない。小月からも鉄道代替のバスが通っているので、ここで参加者が落ち合い、起点に向かって歩くことにしている。 ちなみに、美祢駅前からブルーライン交通の豊田町西市(とよたちょうにしいち)行きに乗ったのは、大出さんと私。ローカルバスの旅は、退屈することがない。この間を結ぶ国道435号にはすでに立派な新道が完成しているが、バスは律儀に旧道を経由するからだ。車窓から美祢線の旧 大嶺駅の現状が観察できたし、平原からの峠越えでは、道に出てきた野生の鹿を目撃した。「次はー、しももものき」という車内アナウンスには、思わず漢字表記(下桃ノ木)を確かめてしまった。 (左)ブルーライン交通バス、美祢駅前にて(右)サンデン交通バス、豊田町西市バス停にて  本題に戻ろう。道の駅で機関車の現況を見届けた後、サンデン交通のバス停へ引き返し、小月から来る中西さんを待った。本日も参加者はこの3名だ。 まずは、西市駅跡へ向かう。駅は町の西側に置かれていたが、さらなる延伸(下注)を意図したからか、街路の軸とは少しずれている。跡地に建つ豊田梨の選果場の平面形がやや西に傾いているのは、そのためだ。 *注 計画では、陰陽連絡鉄道として、日本海側の仙崎(現 長門市)を最終目的地にしていた。 1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆西市~西中山間 同区間 現役時代1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大(1927(昭和2)年要部修正および1936(昭和11)年修正測図)  選果場の壁面に「にしいち」の駅名標が立っていた。もちろん当時のものではなく、2018年製でまだ新しい。傍らの説明板には、駅敷地北側(選果場の西側)にある米の備蓄倉庫が当時をしのばせるという記述があるが、建物は跡形もなかった。鉄道が来ていたことを示すものと言えば、県道の向かいにある公民館の前庭に設置されているという、レールと動輪のモニュメント(下注)ぐらいのものではないか。 *注 設置場所のことは後日知ったので、実見はしていない。 西市駅跡(左)跡地に建つ選果場、赤の円内に駅名標が立つ(右)駅名標と案内板 案内板を拡大  線路跡の道を南へ歩き出す。町をはずれると拡幅された県道に吸収されてしまうが、100mほどでまた分かれて一本道になった。直線と緩い曲線の、線路跡らしい軌跡を描く道で、通るクルマは意外に少ない。森を抜けた先の小さな集落の中に、一つ目の停留所、阿座上(あざかみ)があった。ここにも同じような駅名標が立っている。 線路跡らしい軌跡を描く道 阿座上停留所跡  ゴルフ練習場や古墳群の前を通過し、華山(げさん)が見下ろす田園地帯を横切ると、次は石町(いしまち)駅だ。同じ仕様の駅名標と案内板(下注)で、位置が特定できる。ここでも案内板は「米の備蓄倉庫があり、今でも当時を偲ぶレトロなレンガ造りの建物として残されている」と記すが、すでに取り壊されている。 *注 「鉄道開通百周年 メモリアル長門ポッポ100実行委員会」によるこの解説標識は旧 豊田町域にだけ立てられたらしく、以南の駅跡では見当たらない。 (左)本浴川(ほんえきがわ)の田園地帯を横切る(右)下関市域の最高峰、華山(げさん) 石町駅跡  線路はこの後、県道34号下関長門線の東側を走っていたはずだが、圃場整備と県道の拡幅で跡は消失している。まだ先は長いので、時間節約と体力温存のために、サンデン交通のバスが来るのを待った。地方バス路線の縮小が進むなか、うれしいことに小月~西市間では、まだ日中1時間に1本程度の便がある。石町から次の西中山までわずか5分乗っただけだが、これで3kmほど前へ進むことができた。 西中山バス停の1kmほど手前から、県道と木屋川との間に側道が続いていることに気づいていた。川はすでに下流にある湯の原ダムの湛水域に入っていて、その護岸の役割を果たしているようだが、位置からして廃線跡のようにも見える。 バスで石町から西中山へ (左)西中山駅跡から北望、側道は廃線跡か?(右)側道はダム湖沿いの自転車道になる  西中山を過ぎると、この側道は県道と分かれ、ダム湖沿いの自転車道となって独立する。湯の原ダムは1990年の竣工だから、鉄道の現役時代は、河岸の崖をうがつ形で線路が敷かれていただろう。道なりに曲がっていくと、やがて行く手に支尾根が迫ってくる。自転車道はこれを階段道で越えていくが、鉄道は全長104mの中山トンネルでこれを貫いていた。 同 西中山~田部間 同区間 現役時代の1:25,000地形図(1922(大正11)年測図)  トンネルの西市側のアプローチは藪化していたので、自転車道を通って小月側に回った。踏み分け道を進むと、路線唯一の鉄道トンネルが、ポータルも内壁もきれいなままで残っていた。路面はバラスト混じりの土で、ぬかるみもなく、問題なく歩ける。状態はかなり良好に見えるのに、なぜ自転車道を通さなかったのだろうか。 中山トンネル南口 (左)中山トンネル内部(右)同 北口 南口の手前に掛かる中山トンネルの案内板  トンネルを出た廃線跡は再び自転車道となって、富成橋の手前まで続いている。突然、「シカがいますよ」と大出さんが小声で知らせてくれた。尾根筋の上からこちらを見ている。きょう2頭目だ。カメラを向けると、気配を察したか、さっと森の奥に走り去った。 次の込堂(こみどう)停留所跡は、富成橋の南にある同名のバス停の後ろで、金網で囲われたそれらしい空き地が残っている。ここから鉄道は、旧 菊川町の平野部を南北に横断していく。しかし、圃場整備が行われて、線路跡はほぼ完全に消えてしまっている。一軒家の敷地境界が斜めに切られているのが、ルートを推定する数少ない手がかりだ。 (左)廃線跡の自転車道は富成橋手前まで続く(右)込堂停留所跡の空地を北望  菊川温泉の敷地を横断した後、家並みの裏にようやく線路跡が現れた。一部で簡易舗装されているものの、おおむね草道のまま南へ続いている。県道233号美祢菊川線とぶつかったところで、追跡を中断。近所の「道の駅きくがわ」へ移動して、昼食休憩にした。 菊川温泉の南方、家並みの裏の草道  県道233号と小川を越えた南側の廃線跡も、手つかずの築堤が残る貴重な区間だ。さらに南へ進むと、中間の主要駅だった岡枝(おかえだ)駅の跡がある。広い構内は定番のJA(農協)用地に転用されていて、西市や石町では見ることが叶わなかった農業倉庫もまだ残っている。駅跡より南は、宅地や畑になっているが、その間に溝をまたぐ石積みの橋台を見つけた。 岡枝駅跡(左)JAの施設が建つ(右)現役時代を偲ばせる旧「四箇村産業組合農業倉庫」 (左)岡枝駅の南方は宅地や畑に(右)溝をまたぐ石積みの橋台  岡枝駅の南方で、木屋川の支流、田部川(たべがわ)を渡る。ここには鉄道で最も長い橋梁が架かっていたが、護岸の改修が完了しており、遺構は何もない。対岸の築堤には宅地が列をなすが、すぐに自転車道が跡地に復帰し、田んぼの中を左にカーブしていく。 田部停留所では、おそらく沿線で唯一、切石積みの低いプラットホームが、住宅敷地の土台となって残存する。重要な史跡という意味を込めてか、久しぶりに案内板も立っていた。下関市教育委員会によるもので、ホームの全長は45m、高さ0.65mとある。 (左)田部川渡河地点、対岸に見える倉庫は廃線跡に建つ(右)自転車道が跡地に復帰 切石積みのホームが残る田部停留所跡  枝を伸ばす桜並木を過ぎると、道は上り坂に転じ、県道265号とともに切通しを抜けていく。雨でのり面が崩壊したらしく、全面通行止の看板が立っていたが、歩いて通るには問題がなかった。 県道と斜めに交差した直後に、上大野停留所があった。道路脇に三角の緑地帯が取られ、立派な桜の木の根元に、小さな駅跡碑が埋まっている。 (左)桜並木から上り坂に(右)上大野まで坂道は続く 上大野停留所跡 同 田部~小月間 同区間 現役時代の1:25,000地形図(1922(大正11)年測図)  水路敷設工事による迂回区間の後は、山手を縫う簡易舗装の農道になった。主要道から遠ざかるので静かで、気持ちよく歩ける。途中で、「6」(600mの意?)の数字が刻まれたコンクリート製の距離標を見つけた。鉄道時代の遺物だろうか。 森が覆いかぶさる緑のトンネルをくぐってなおも行くと、県道が左から近づいてきて、合流した。下大野駅のあった場所にも、同名のバス停が設置されている。小月と菊川の間は国道491号を行くのが最短ルートだが、バス便のうち4割ほどは、鉄道と同じく遠回りの大野経由で運行されているのだ。 (左)山手を縫う簡易舗装の農道(右)コンクリート製の距離標 (左)用水路のサイホン(右)緑のトンネル (左)下大野で県道と合流(右)下大野駅跡のバス停  右へ折れ、再び谷あいに入ろうとする地点では、中国自動車道に沿って高く盛った築堤が一部残っている。この後で越える峠のために、かなり手前から高度を上げていたことがわかる。しかし、廃線跡はすぐに高速道の下に取り込まれてしまう。峠といっても標高40mほどに過ぎないが、だらだらと続く長い坂道で、歩き疲れた足にはこたえる。 (左)峠に向けて盛られた築堤(右)だらだら坂のサミット  次に線路跡が明瞭に現れるのは、峠を降りた上小月で浜田川を渡る地点だ。左にそれる県道に対してまっすぐ延びる道をぼんやり歩いていたら、大出さんが「橋台が残ってますよ」と、隣に並行する道を指差す。確かに切石積みの橋台が見える。今歩いているのは2車線道になる前の旧道で、廃線跡は、並行するこの小道のほうだった。 (左)浜田川を渡る旧道脇の廃線跡(右)浜田川の切石積み橋台  菊川町からまっすぐ南下してきた国道491号とは、ここで出会う。廃線跡はその下に埋もれてしまったものと思い込んでいたが、観察眼の鋭い大出さんが、小川を通すカルバート(暗渠)の向こうに、また橋台を見つけた。さっきと同じ切石積みだ。この前後では廃線跡と国道が絡み合うように走っており、一部分が国道の西側に残っていたのだ。 中国自動車道の手前では、川べりを走る小道と廃線跡が一体化されたにもかかわらず、低いコンクリート柵が中央分離帯のように残されている場所があった。 (左)国道491号の西側に残る橋台(右)中央分離帯のようなコンクリート柵   左側の道はかつて線路だった  小月インターのランプをくぐると、いよいよ小月の市街地に入る。ここでも意外に廃線跡をたどることができた。新幹線と交差する前後は拡幅済みで、そのうち片側1車線の街路になるのだろう。その先にあった長門上市駅の跡は、すっかり宅地化されている。中央に細道が通っているが、微妙に曲がり、かつ細すぎるので、線路敷そのものとは思われない。浜田川に接近すると、護岸改修の影響で不分明になってしまうが、街中の地割には廃線跡の名残がある。 小月市街地の廃線跡(左)新幹線と交差する前後は拡幅済み(右)長門上市駅跡は宅地化、中央に細道が通る 地籍界に残る廃線跡(赤円内の細長い地割)  長門鉄道にとって主要貨物は、沿線で生産される米や木材だった。起点の小月駅には、こうした貨物を扱う広いヤードがあり、今は商業施設や駐車場に転用されている。鉄道で栄えた時代はもとより、廃止によって駅前に生まれた空地も、町の商業発展に少なからず寄与したに違いない。しかし、そのことを記す説明板一つ立っていないのは残念なことだ。 今はどちらも下関市域だが、終点の旧 豊田町が鉄道史の保存や紹介に熱心に取り組んでいるのを間近に見た後では、物足りなさを覚える。長門鉄道が外界とつながる生命線だった内陸の西市と、早くから全国幹線が通じていた小月とでは、思い入れに強弱の差があるのは当然なのかもしれないが。 (左)小月駅跡は商業施設や駐車場に(右)山陽本線小月駅  掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図田部(大正11年測図)、小月(大正11年測図)、5万分の1地形図西市(昭和2年要部修正)、舩木(昭和11年修正測図)、20万分の1地勢図山口(昭和6年部分修正)および地理院地図(2022年4月10日取得)を使用したものである。 ★本ブログ内の関連記事 コンターサークル地図の旅-成田鉄道多古線跡 コンターサークル地図の旅-夷隅川の河川争奪と小湊への旧街道 コンターサークル地図の旅-秋吉台西台のウバーレ集落 close

コンターサークル地図の旅-長門鉄道跡
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タグ コンターサークルS 廃線跡 日本の鉄道 鉄道
投稿日時 2022-04-21 00:20:25

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