コンターサークル地図の旅-熊延鉄道跡の詳細

コンターサークル地図の旅-熊延鉄道跡
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記事タイトル コンターサークル地図の旅-熊延鉄道跡
概要

2022年4月24日、熊本でのコンター旅2日目は、熊延(ゆうえん)鉄道の廃線跡を歩く。 八角トンネル  熊延鉄道というのは、豊肥本線の南熊本(旧名 春竹)から南下し、砥用(ともち、現 下益城郡美里町)まで延びていた長さ28.6kmの非電化私鉄だ。1915(大正4)年か…… more ら1932(昭和7)年にかけて段階的に延伸開通し、緑川流域の主要な交通手段として利用された。 「熊延」の名は、熊本と宮崎県の延岡を接続するという壮大な構想に由来する(下注)。しかし、列車が九州山地を越えることはついになかった。戦後はモータリゼーションの進展で利用者が減少し、1964(昭和39)年3月限りで惜しくも廃止されてしまった。 *注 1915(大正4)年の開業時は御船(みふね)鉄道と称したが、1927(昭和2)年に改称。 熊延鉄道の現役時代から残る南熊本駅舎  熊延鉄道現役時代の1:200,000地勢図(上)1931(昭和6)年鉄道補入(下)1959(昭和34)年編集 同 1:50,000地形図 春竹(南熊本)~上島間(1931(昭和6)年部分修正および1926(大正15)年修正測量) 同 1:50,000地形図 上島~甲佐間(1931(昭和6)年部分修正、1926(大正15)年修正測量および1942(昭和17)年修正測量) 同 1:50,000地形図 甲佐~砥用間(1942(昭和17)年修正測量)  ◆ 私は熊本駅近くに宿をとっていたので、豊肥本線の列車で新水前寺駅まで行き、最寄りのバス停「水前寺駅通」から、8時17分発砥用・学校前行きの熊本バス(下注)に乗り込んだ。熊本バスは、熊本の南部市街地から上益城、下益城郡一帯に路線網を持っている。というのもこれは、熊延鉄道がバス転換に当たって改称した会社だからだ。呼び名は変われども、地方交通機関として今なお存続しているわけだ。 *注 バスの起点は桜町バスターミナル(旧 熊本交通センター)。砥用方面の一部の便は、熊延鉄道のルートとは離れた健軍線経由で運行されている。 今日は九州を離れる日なので、活動時間に限りがある。それで全線踏破ははなから諦め、遺構が多く存在する末端区間の甲佐(こうさ)~砥用間を、砥用側からたどろうと思っている。 甲佐駅跡にある熊本バスの車庫  市電に乗り鉄していた大出さんが、健軍(けんぐん)で乗ってきた。本日も参加者はこの2名だ。バスは横引カーテンの窓、背もたれが低いシートという旧型車で、大出さんによれば、都営バスのお下がりだろうとのこと。健軍からは一路南下し、九州道御船ICの横を通って、鉄道の当初の目的地だった御船町の市街地へ。それから国道443号線の妙見坂トンネルを抜けていく。この前後の国道ルートは廃線跡を通っているが、トンネルは2車線幅に拡張されており、面影はまったくない。 廃線跡を拡張した国道443号妙見坂トンネル  甲佐(こうさ)で平地は尽き、いよいよバスは山間部に入っていく。熊本市街からおよそ1時間15分揺られて、ようやく砥用の町に着いた。なお、私たちは「砥用中央」バス停で降りたが、駅跡に直接行くなら、一つ手前の「永富」バス停が近い。 砥用駅の敷地は工場などに転用され、駅舎もホームも残っていない。だが、周辺では製材所が今も稼働しているほか、運送会社の事務所跡や熊本バスの砥用車庫(といっても露天の駐車スペースと小さな詰所)があって、廃止から半世紀を経てもなお、鉄道の記憶をとどめている。 砥用中央バス停に到着 砥用駅跡(左)熊本バスの車庫(右)駅前の運送会社事務所跡  1:25,000地形図に歩いたルート(赤)と旧線位置(緑の破線)等を加筆砥用~佐俣間 同区間 現役時代1:25,000は未刊行のため、1:50,000を2倍拡大(1942(昭和17)年修正測量)  さっそく甲佐に向けて歩き出した。駅を出た直後にあった築堤は崩され、整然と並ぶ2階建てのアパート群で置き換えられてしまった。しかしその続きには、起点側から見て最後の鉄橋、第6津留川橋梁が現存する。もちろん「下永富橋」(下注)という道路橋としてだが、津留川(つるがわ)に架かっていた6本の橋梁の中で、唯一ガーダー(橋桁)が現存する点で貴重だ。そしてここから、廃線跡は1車線の舗装道となり、切通しを抜け、山際の森を下っていく。 *注 下永富橋の親柱には、1981(昭和56)年3月竣功と刻まれていた。 道路橋に転用された第6津留川橋梁 (左)第6橋梁西側の築堤(東望)(右)山際の森を下る廃線跡の道路  ところで話はそれるが、この区間には江戸時代の石橋がいくつも残っている。私はその見学も楽しみにしてきた。その一つが大窪橋(おおくぼばし)で、近くの津留川に架かっている。 案内板によれば、1849(嘉永2)年の築造で、全長21m、高さ6.5m。谷が浅いので、アーチのスパンを確保するために、太鼓橋の形をしている。積み石の古びた肌は、170年という時間の証人だ。橋のフォルムをなぞるように、両岸のサクラの枝もアーチを作る。花の咲く頃はさぞ見栄えがすることだろう。 津留川に架かる石橋、大窪橋 170年の時を遡る景観  さて、廃線跡の1車線道はやがて右にカーブしていき、次の目磨(めとぎ)集落の中の三差路で行き止まりになる。そこが釈迦院(しゃかいん)駅の跡で、個人宅に駅名標が保存されていることで知られる。通りがかった地元の人に、そのお宅のブロック塀が、ホームの縁石に立っていることを教えてもらった。道を挟んで対角線の位置には、石灰を積み出していた貨物ホームの一部も残っている。 釈迦院駅跡奥に抜ける道路が線路の位置 (左)個人宅の外壁に掛かる駅名標(右)ホーム縁石の上に立つブロック塀  しかし、線路跡を直接追えるのはここまでだ。この先では津留川の下刻が始まり、かつ曲流しているため、線路は2km足らずの間に5回も川を横断しなければならなかった。これらの鉄橋(第5~第1津留川橋梁)はもう橋脚しか残っていない。 私たちは対岸に渡り、高みを行く国道218号旧道を迂回した。第5と第4橋梁のありかは、森に阻まれてわからなかったが、第3は、旧道から左に入る砥用西部農免農道の橋上から俯瞰できた。谷の中に、円筒形の橋脚が1本立っている。また、今(いま)集落の西で、谷底へ降りていく地図にない道をたどると、河原からの視点が得られる。 津留川の河原に立つ第3橋梁の橋脚農免農道の橋上から俯瞰 河原から見る第3橋梁の橋脚  旧道はこの後、旧馬門橋(まかどばし)で津留川をまたいでいる。老朽化のため車両は通行止めだが、歩いて渡るには問題ない。橋の上から、第2橋梁の2本並んだ橋脚が見下ろせる。上手の1本は、這い上ってきた蔓草で覆われつつあった。 橋から続く線路は、切通しで国道の下をくぐっていたが、埋め戻され、工場用地に転用されてしまった。空中写真で見ると工場の建物が、線路の向きをなぞるように国道に対して45度の角度で建てられているのがわかる。 車両通行止の旧馬門橋 旧馬門橋から第2橋梁の2本の橋脚を見下ろす  さて、ここにまた石橋がある。国道の馬門橋の直下に架かっているので、草の小道を降りていった。町の公式サイトによると、この初代 馬門橋は1828(文政11)年の築造で、長さ27m、高さ9.2mだ。 昼なお暗い峡谷の底で、石橋はすっかり苔むし、誰も通らない路面には落ち葉が散り敷いていた。傍らでは、支流の天神川が小さな滝となって津留川に注ぎ込んでいる。外界からなかば閉ざされて、霊気さえ漂う空間だ。 初代馬門橋 峡谷の底、天神川が滝となって注ぎ込む  廃線跡に戻ろう。この先、国道の北側に佐俣(さまた)駅があったが、今は更地で採石業者の所有地になっているようだ。ところが今日は様子が違う。原色の幟旗が林立し、大勢の人が出入りし、犬の鳴き声が響き渡っている。土佐闘犬横綱の披露会だという。ふだんは静かなはずの村が、時ならぬお祭り状態だった。 闘犬横綱の披露会を開催中  佐俣からは再び旧道を歩く。右側の谷に目を凝らしてみるが、第1橋梁の遺構は森の陰になって見えない。やはり対岸に回る必要があるようだ。さらに進むと、津留川に南から釈迦院川が合流する地点に出る。興味深いことに、ここには2方向に架かる双子の石橋がある。 支流の釈迦院川を渡っている「二俣渡(ふたまたわたし、下注)」のほうが古く、1829(文政12)年の築造で、長さ28m、高さ8m。一方、津留川本流の橋は「二俣福良渡(ふたまたふくらわたし)」と呼ばれ、1830(文政13)年築造、長さ27m、高さ8m。後者は2016年4月の熊本地震で一部が損壊したが、それを機に全面解体修理が行われ、翌年11月に元の姿を取り戻した。 *注 以前は、二俣渡が二俣橋、二俣福良渡が第二二俣橋と呼ばれていたが、江戸期の旧称に戻された。 双子の石橋(左)二俣渡 (右)二俣福良渡  さらにすぐ南、はるか頭上で、1924(大正13)年に造られた年祢橋(としねばし)がひときわ大きなアーチを架けている。国道(完成当時は県道)橋だったが、新橋の完成で、自転車・歩行者道に転用された旧橋だ。二俣福良渡に並行する町道の新二俣橋(第三二俣橋)、国道の新年祢橋と合わせて「一目五橋」のこの場所は、橋好きには見逃せない。 大正期のアーチ橋、年祢橋 一目五橋の景観(新二俣橋は左の画面外) 二俣渡のたもとにある八角トンネル案内図  そこから300mほど下ったところにある駐車スペースが、八角トンネルへの入口になる。熊延鉄道で最も有名な遺構だ。案内板に示された地図に従って廃線跡の林道を上流へ向かうと、左カーブの先にそれが見えてきた。 トンネルと呼ばれてはいるが、実態は、擁壁を補強するためのバットレス(控え壁)が7個連なる姿だ。各個体はつながっておらず、隙間から空が覗く。八角形の断面自体も珍しいが、カーブの途中にあるため、それが少しずつずれながら重なって、独特の視覚効果をもたらしている。巷で言われる異界への入口という形容も、あながち誇張とは言えない。 (左)廃線跡の林道を行く(右)八角トンネルが見えてきた (左)個体間には隙間がある(右)擁壁を補強するための構造物 反対側(砥用側)からの眺め  お楽しみはこれだけではなかった。トンネルをくぐり抜けてさらに400m進むと、コンクリート製の橋台が道を半分塞いでいる。その先に、谷へまっすぐ落ち込む道を塞ぐように、第1津留川橋梁の橋脚がぬっと突き出ていた。 1本は手前の斜面にあり、より高い2本(下注)が川の流路の左右に立つ。対岸にさらに続きがあるはずだが、杉林に隠されているようだ。河原から仰ぐと、円筒のシルエットは直線でなく、裾がやや膨らんでいる。それにしても巨大な胴回りだ。撤去しようにもこれでは費用が割に合わないだろう。 *注 案内板によれば、高さは約20m。 第1津留川橋梁の下手側の橋台 同 橋脚(左)斜面に立つ下手の1本(右)川の流路に立つ2本のうちの1本  同 佐俣~甲佐間 同区間 現役時代の1:50,000地形図(1942(昭和17)年修正測量)  駐車場まで同じ道を戻る。ここから下流の廃線跡は道路化されなかったので、藪化が進んでしまったようだ。それでしばらく国道443号の側歩道をたどる。西寒野(にしさまの)で1車線道を左に入り、しばらく行くと、小川島集落の手前で、地図に描かれたとおりの大築堤が残っていた。 道が築堤を乗り越す地点で観察したところ、上流側は背の高い藪に覆われて、とうてい入れそうにない。片や下流側は、森の中に踏み分け道が続いているようにも思えた。しかし残りの時間を勘案して、確実に通行できるこの1車線道を進むことにする。 小川島集落上手の大築堤(築堤の天端部を薄い白線で強調)  集落の北側には、さきほどの築堤から通じている橋台の遺構があった。その北側は緑川の氾濫原で、かつて鉄橋まで長い築堤が延びていた場所だ。残されていたら廃線跡名所の一つと称されたに違いないが、今は一面の田園地帯で、面影すらとどめていない。 (左)小川島の北側に残る橋台(右)橋台から下手(甲佐側)を望む 緑川右岸(甲佐側)から小川島の橋台(矢印)を遠望かつてこの間に橋梁と築堤があった  国道の日和瀬橋で、緑川(みどりかわ)を渡った。川の右岸(甲佐側)では、緑川から取水されている大井出川に面して築堤が残り、住宅の敷地の一部として使われている。開設から8年足らずで廃止と、短命だった南甲佐(みなみこうさ)駅もこのあたりにあったはずだ。 (左)大井出川に面して残る築堤(右)甲佐市街の廃線跡は国道に  ここから甲佐駅までは、国道に上書きされてしまったので、約1kmの間、車道の横をひたすら歩き続けるしかない。甲佐駅跡は、熊本バスの車庫に再利用されている。周辺を探していた大出さんが、駅跡を示す標柱が見えないと思ったら、道路際に倒れていましたと言う。2021年11月に撮影されたグーグルマップのストリートビューでは立った状態なので、倒れたのはごく最近のことらしい。 バス車庫の甲佐駅標柱は、草むら(左写真の手前)に倒れていた写真は大出氏提供  ともかくこれで、砥用~甲佐間の探索という当初の目的は達した。だがもう1か所、上島(うえしま、下注)駅付近のことが気にかかっていた。平野区間で痕跡が集中している地域だからだ。それで甲佐から、熊延鉄道本来のルートである旧浜線を経由するバスに乗り、上島まで行った。 *注 地名は「うえじま」と読む。 (左)熊本バス甲佐営業所(右)上島バス停、人物後方の空地と住宅が駅跡  同 上島~鯰間 同区間 現役時代の1:25,000地形図(1926(大正15)年測図)  上島駅の跡は事業用地や宅地に変わってしまったが、その北方の水路に、橋脚の基礎部分と言われる鉄筋の浮き出た2本の杭が露出している。その延長上には、水路を渡る短いガーダー(鋼製橋桁)と橋台も残されている。最近、水路の改修が行われたらしくU字溝が新設されていたが、それでもガーダーが撤去されていないところを見ると、保存の意図があるのだろう。 さらに南熊本方に進むと、駐車場の間に、短い距離ながら土の路床が農道となって残る。表面がかなり風化してはいるが、距離標(下注)が立っているのには驚いた。上島駅の起点からのキロ程が 7.6kmなので 7kmポストのようだが、原位置にあるものとしては、熊延鉄道唯一かもしれない。 (左)水路に露出する橋脚基礎(右)水路を渡るガーダーと橋台 (左)かろうじて残る廃線跡の路床(右)風化が進んだ距離標  交通量の多い国道266号浜線バイパスの沿線で、巨大なイオンモールが近くにあり、周辺では商業地化がじわじわと進行している。この奇跡的な光景も見納めになるのだろうかと、惜別の思いを抱きながら、私たちはその場を後にした。 掲載の地図は、国土地理院発行の2万5千分の1地形図宇土(大正15年測図)、御舩(大正15年測図)、5万分の1地形図熊本(1931(昭和6)年部分修正)、御舩(大正15年修正測図)、砥用(1942(昭和17)年修正測量)、20万分の1地勢図熊本(昭和6年鉄道補入)、八代(昭和34年編集)および地理院地図(2022年6月5日取得)を使用したものである。 ■参考サイト熊本県公式サイト-熊延鉄道に関する写真https://www.pref.kumamoto.jp/site/kenou/8153.html ★本ブログ内の関連記事 コンターサークル地図の旅-三角西港と長部田海床路 close

コンターサークル地図の旅-熊延鉄道跡
サイト名 地図と鉄道のブログ
タグ コンターサークルS 廃線跡 鉄道
投稿日時 2022-06-11 05:20:27

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